パソコンは業務を効率化していない

 パソコンを導入したことで、どれだけ業務が効率化したかを山梨県のある市役所で調査したところ「個別の業務は効率化したものの、その分ファイルを探す時間が増えたことと相殺して効率化していない」との調査結果を得たそうです。
 それまで手書きで行っていた書類や図面の作成をアプリケーションで行うようになったのですから、効率化しないわけがないのです。それをパソコン導入前に比べて相殺するほどの非効率が発生したのです。
 ファイルを探すのに時間が掛かるようになったとのことですが、従来の書庫から書類を取り出すという簡単なことに相当することがパソコンではできなくなった、というのです。
 「パソコンという高度な情報処理装置を導入したばかりに、従来の書庫から書類を取り出すという程度の簡単な情報処理さえも出来なくなった」というのは、ブラックジョークとしても程があるできごとです。
 それにも増す一番の問題点は、このパソコンの運用の誤りに世の中の多くの人が気づいていないことです。

 会社のファイルが整理ができないのは「パソコンは個人で管理するもの」といった誤ったパソコンの使い方をしているからです。そして多くの人がまるでパソコンを使う際の守らなければならないルールのように考えているのです。
 この状態では共有フォルダにファイルを整理しようと言っても、それぞれが「パソコンは個人管理しなければならないのに、皆でファイルを整理するような共同作業はしてはならない」と反発するので、実現することができないのです。
 この運用習慣の元凶である「パソコンは個人で管理するもの」といった使い方は誰が決めて、何故守らなければならないのでしょう。
 実はこれは30年も前のパソコンが普及し始めた頃のアメリカの一般家庭の使い方に過ぎないのです。
 Windowsになるとパスワードが実装されました。これは当時は未だ高額だったパソコンを家族でシェアするための機能でした。
 お母さんのアカウントでログインするとお母さんのパソコンになり、お子さんのアカウントではお子さんのパソコンになりました。パスワードはたとえ親子であっても互いのプライバシーを尊重するという、いかにもアメリカらしい機能だったのです。
 そんなパソコンを操作した私たちは、アメリカの文化や習慣を反映した機能から「パソコンは個人で管理するもの」といったことや「他人のパソコンを勝手に操作してはいけない」といったことを学びます。そしてこれがパソコンの運用ルールとして広まったのです。

 しかし会社は組織活動をしています。組織活動は分業により業務を効率化するものです。そのため、従来は情報を抱え込まずに共有することが求められていたのです。ところが個人で管理するものというパソコンを導入すると、次第に会社の情報が各自のパソコンに分散するようになり、会社の情報を抱え込むことが普通のことになってしまったのです。
 それにしても不思議なのは会社が長年培ってきた組織活動を効率的に行うための仕組みや約束ごとが、たかだかパソコンという一道具を導入したばかりに吹き飛んでしまったのです。
 

 この不思議な現象をどのように考えたら説明が付くのかと思い悩み、行きついたのがパソコン偏重主義という考え方です。
 問題の本質を知るにはパソコンが登場した当時のことを知る必要があると考えました。
 パソコンが登場した際には、私たちはとても大きなインパクトを受けたからです。若い人なら生まれた時からパソコンは有りましたし、他の人も入社した時にはパソコンが有ったと思います。そのため誰もが「パソコンとはこういうもの」というイメージを持ち合わせています。
 ところがパソコンが登場した当時の人達は、コンピューターのことなどまるきり分かりませんでした。言葉として聞いたことがある程度の遠い世界の話だったのです。まして、自分がコンピューターと係わりを持つようになるとは誰一人として想像もしていませんでした。

 そしてパソコンが目の前に現れました。多くの人は想像もしていなかったので何が起きたのか分かりませんでしたし、パソコンを目の前にしても、どのようなものかをイメージすることさえできなかったのです。
 そして「これからはコンピューターを茶の間や会社で使えるようになる」と次第に言われるようになりました。

 少しずつパソコンが浸透すると「パソコンを導入すれば業務が効率化する」といった考えが一般的になりました。
 そして様々な会社がパソコンを導入するようになります。パソコンの導入を任せられた人も、コンピューターの知識を持っていませんでした。持っていたのは「すごい装置らしい」というイメージだけでした。当時はそんな状況だったのです。

話は変わりますが、人間の祖先はホモサピエンスという種だそうです。3千年前の同時期にはネアンデルタール人もいたそうです。ネアンデルタール人は身体が大きく腕力も強く狩猟に向いていたそうですが絶滅してしまいました。それは、氷河期が近づくと大型の獲物が次第に減っていったからだそうです。
 対してホモサピエンスは道具を使って動きの速い小動物を捕食できたことが明暗を分けたとのことです。私たちは昔から道具を使うのが上手だ種だったと思われますが、その遺伝子が未だに残っているように思います。
 最先端の科学技術を備えた道具をリスペクトしてしまうのです。初めて空飛ぶ機械を見た人は歓喜の面持ちで飛行機をリスペクトしたはずです。

 そして登場した当時のパソコンもまたリスペクトの対象だったのです。そしてこの優れた装置なら「業務を効率化する」のは当たり前と考えられたのです。この考えは誰もが抱く疑いようのない固定化されたものでした。
 そして会社がパソコンを導入するようになると「パソコンを覚えられなければ会社にいられない」といわれるようになりました。
 これは、パソコンが想定通りの能力を発揮するためには、パソコンを操作できる人が必要との考えからでしょう。
 
 しかしこの考えには可笑しなところが有ります。パソコンは業務を効率化するための道具にすぎません。普通の道具は人間か使って評価を下すものです。ところがここではパソコンを使えない人が排除されるという、あたかもパソコンが人を評価するようなことが起きているのです。
 会社にとって人よりもパソコンの方が価値が高い状態ですが、このようにパソコンが登場した当時のパソコンへのリスペクトから、余りにパソコンを高く評価した状態を、私はパソコン偏重主義と呼ぶことにしたのです。

そしてこのパソコン偏重主義があったからこそ、会社が長年培ってきた組織活動を効率的に行うための仕組みや約束ごとが、たかだかパソコンという一道具の使い方に、ふっ飛ばされてしまったと考えるのが妥当なのです。しかも30年前のアメリカの一般家庭の使い方にです。
問題はこれが昔の話ではなく、今なお現在に踏襲されていることです。
そして更なる問題は、多くの人が誤ったパソコン運用の自覚症状がなく、現在の状況に気づいていないことなのです。

パソコン偏重主義は更なる可笑しなことも生み出しました。
パソコンが突然壊れて中のデータを消失してしまうことがあります。その際に「パソコンが壊れちゃったよと」周囲の笑いを誘うように明るく振る舞っているパソコン使用者を目にしたことはないでしょうか。本来なら責任を感じても良さそうなことなのです。
ここでの彼の思考はどのようなものだったのでしょう。
 会社は人よりもパソコンを遥かに高く評価しています。このパソコンが上位で人が下位という状況は上司と部下の関係に似ています。上司は会社に高く評価されていますが部下はそうでもありません。この状況で上司がミスを犯しても部下は責任を感じるでしょうか。当然感じません。これと同じで、会社から高く評価されているパソコンの故障しても、使用者は責任を感じなかったのではないでしょうか。
 笑い話のようですが、調査を行った市役所でも同様のことが起きています。パソコンが業務を効率化しないことが判明したにも拘わらず、改善しようとしないのです。改善しない理由は、「何をどうして良いのかわからない」といったこともありますが、「パソコンのしていることなので、私たちには関係ない。」といったように、この問題に関心がないのです。
 しかし、業務が効率化しないのなら、パソコン関連予算を毎年計上する必要はなかったわけですから、この問題の大きさと、職員の意識には大きな乖離があるのです。
 このようにパソコン偏重主義が今なお私たちのパソコン運用に影響を及ぼして、業務の効率化を阻害していることを私たちは認識する必要があるのです。